過程の検証が結果の検証とは言えないものなのです。
一生懸命数字の積み上げをするのです。ひとつ抜けても結論は出ません。こんな項目も必要なのかと後から気づき、バックデータの追加です。やっとの事で積み上げ完了したものの、やはり間違いがあるもので、上司がいうのです。
「君は数字のセンスがないねぇ。」
「落ち着いて見直せば気づくだろう」というのですが、こちらは落ち着く余裕もないのです。センスといわれて、すべてを否定された様でいい気がしなかったわけですが、経験をすれば得られると解釈して今はセンスを磨く毎日です。
計算書のチェックの際に大きく分けて2種類の検証をしていると言えるでしょう。
計算書の各ページがのようにつながっているか、それぞれのページ計算書が正しく計算されているか検証することを「過程の検証」と名付けましょう。大量の計算書を目の前に先ず思うことは「なんとか終わらせなければ」ということです。「過程の検証」では、検証を終わらせることが一番の目的になってしまうのです。
無意識に、「この計算書は正しいのだ」と暗示にかけているのにちがいありません。おかしな点を見つけたら、それだけ検証が遅れてしまうのですから。
変な話ですが、結果があっているかどうかの検証は必ずしも「過程の検証」と連動していません。むしろ「過程の検証」をして後は、結果が少々変であっても、「それで良いんだ」と言い聞かせてしまうのです。ということで「結果」だけをみての純粋な判断が必要となるのです。
人間不思議なもので、第六感みたいなものがあります。パッと見ただけでおかしいと感じるというのです。しかしこれには技術が必要になります。
要するに経験がものをいうのです。「この柱はいつもに比べて細いと感じた」「鉄筋の数が少ないと感じた」なんていえるのは、普段から計算書を見慣れている人だからこそでしょう。
この様に「過程の検証」と「結果の検証」は相反するもので、両立しにくいものだと思うのです。
あらかじめこの計算書は間違いがあると知っていれば「過程の検証」は効率よくなるでしょう。間違い探しクイズで「この2枚の絵の中にいくつ間違いがあるでしょう」と問われるより、「この2枚の絵の中に5箇所間違いがありますがどれでしょう」と問われる方が答えやすいものです。もっと言えば「こんな間違いがあります。どこにあるでしょう」という問題の方がはるかにやさしいはずです。結果に誤りがあるとわかれば、検証は容易でしょう。
しかし「結果の検証」と「過程の検証」をひとりの担当者がこなすのは至難の業でしょう。まず「この計算書は正しいのだ」という暗示があります。記載されている数字があわない場合は目にとまりますが、いっそ記載されていなければ「おそらく合っているのだろう」と自分に言い聞かせるのに違いありません。結果、表示されている数字を照合するだけで、自分の任務は終わったということになってしまいがちです。
もうひとつセンスの問題があります。センスは経験を積むことで得られるものですが、検証の担当者が必要な経験を積めるとは限りません。たまたま、工事や設計に関して経験豊富な担当者が「過程の検証」を担当する事になればいいのですが、仕事の細分化が進んでいる現在、数字を照合する専門家が検証することになってしまうのです。照合作業だけではなかなかセンスを磨く経験を積むことはできないでしょう。
(05.12.04)
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