[いろいろ乗り継ぐ]
チベットへの道

広い国土を旅すると大きな変化を感じることができるのです。

Contents
>いろいろ乗り継ぐ
>辺境の地は緩やかな境界
>>中国とチベットにある緩やかな境界>>チベットの中の中国流
>資本主義と社会主義の境界
>>中国内陸部と沿岸部の格差>>国境の町

いろいろ乗り継ぐ

 中国を旅したのは今から20年も前のこと。まだ社会主義経済が色濃く残っておりましたが、外国人の旅行者が自由にあちこち移動できるようになった矢先でした。神戸から2泊3日の船旅で上海に行けるというので、大した予備知識もなく『地球の歩き方』を片手にカーフェリー鑑真号に乗り込んだのでした。

 乗船してからあらためて認識したのですが、中国の夏の観光シーズンは宿も列車も予約が大変とりにくいというのです。もともと明確な予定を立ててきたわけでないので、確保できた切符次第でどこへでも行こうと腹をくくりました。まるですごろくで駒を進めるような旅の始まりです。

旅のルート
地図

 旅は次の通り1ヶ月、いろいろな種類の乗り物に乗り継ぎながら中国を1周することとなりました。

■上海から蘭州へ
 シルクロードのウルムチまで特急で72時間の旅のはずでした。座席車の予約しかとれず、お尻が痛いと苦しんでいた頃、ちょうど中間地点の蘭州で、全員下車させられました。この先で貨物列車が火災を起こしたとのこと。
■蘭州からラサへ
 一度列車を降りたら、ウルムチ方面の予約は至難のわざのためにあきらめ、ことの成り行きでチベットのラサへ向かうことになりました。列車1泊、バス1泊の乗り継ぎです。
■ラサから成都へ
 バス旅は高山病寸前の苦行だったので、帰りは飛行機で行くことにしました。噂には聞いていた通り、旧式の機体に、サービス精神の無いキャビアテンダントでしたが、バスよりは快適です。
■成都から深セン
 長江下りの船で東に向かい、北京発広州行き特急で南に向かいます。国境を歩いて越えたいので国境の町深センで一泊します。
深センから香港へ
徒歩で国境を越えると、まったく別の世界がありました。切符をとるのも、物を買うのも行列をしていないのです。

長江下り
写真1

辺境の地は緩やかな境界

 チベットのラサは辺境の地というイメージとは裏腹に、すっかり中国流のまちの様でした。

中国とチベットにある緩やかな境界

 思ったほど険しい道のりでなかったという印象があります。

 鉄道、バスを乗り継いで、いつの間にかチベット自治区のラサという都市に着きました。標高は富士山なみの高山で、途中標高5000メートル級の峠越えで高山病寸前です。世界地図で見ると、この地域全体がこげ茶色に着色されているのですから標高が高いことは間違いありません。

 しかし、その想像とは違い、思ったほど険しくはなく、拍子抜けした感があります。それまでの予備知識では、断崖絶壁の下は何百メートルの谷底、その上をすれ違いもままならない狭い未舗装の険しい山道をバスはひた走るのだと思っていたのです。日本で体験する秘境の峠といえば、そんなイメージですから、それをさらにワイルドにしたものだと思っていたのです。標高差はありますが、あの広い国土を走るわけですから、ゆるやかになるというわけです。

広々としたチベットの風景
写真2

チベットの中の中国流

 ラサの街並みがずいぶん中国流に整備されているというのも意外でした。

 首都ラサは、ラマ教の総本山です。ポタラ宮殿がまちのシンボルとして有名です。まちの中では「五体投地」といわれるスタイルで巡礼する姿も見かけます。

 風景も本来違って見えるはずですが、第一印象は旧市街を囲むように戦車でも走れるような立派な幹線道路が整備され、一見中国の他の都市とそれほど変わらないのです。

 私がこの地を去って1ヶ月後、チベット暴動が起きました。道路に戦車が本当に走るとは想像していませんでした。表面的に平和に見えたまちは、チベット文化にどんどん入ってくる中国の文化に対して、複雑な思いをもっていた様です。私も、短ズボンでうろうろして怒られていた「観光客」で目障りだったのかもしれません。度重なる弾圧に我慢の限界に来ていたということなのでしょう。

 私がバスでたどったルートを2006年からは鉄道が通るようになりました。これで中国の平野部とチベットの結びつきはさらに強まりました。中国政府としては豊かな経済・文化をチベットの地にも広めたいという意図があるのでしょう。しかしチベット側から見ると、無節操に中国の経済や文化が流入して欲しくない思いがあるようです。緩やかな境界でなく、しっかりとした境界が願いであるというわけです。

資本主義と社会主義の境界

 中国内陸部から沿岸部に向かうにつれ、改革・開放の動きが活発になるのが感じられました。これはゆっくりとした変化です。

中国内陸部と沿岸部の格差

 ラサという辺境の地からの帰途。乗り物を乗り継ぐたびに少しずつ「あか抜けていく」変化を感じるのは興味深い体験でした。

 山あり谷ありの景色の変化も魅力ですが、肌で感じる文化などの変化も、大変興味深いものでした。どこに行っても10億人がひしめく、雑多さは変わりませんが、南に向かうほどに徐々に人々の格好があか抜けてきたような気がします。チベットはもちろん、四川など中国の内陸部においては人民服が主流で、Tシャツの私は大変目立ちましたが、広州まで来ると、どう見ても私の格好の方がみすぼらしく、現地の人たちにとけ込んでいたようで、道行く人にも道順を尋ねられるほどでした。内陸部と沿岸部の格差については当初より顕在化していましたが、現在もおそらく続いている傾向でしょう。

国境の町

 中国国内での変化は、何千キロメートルの行程で少しずつ感じられる、緩やかな変化だったのに対し、香港では徒歩で変化が感じられる貴重な体験でした。

 最終目的地は香港です。そのころの香港はイギリス領で、私にとっての中国最後の目的地は深センでした。深センは、香港との国境の町で、「経済特区」といって少しづつ資本主義経済を取り入れる実験都市なのです。手前の大都市「広州」から香港行きの直行列車もあるのですが、国境の町を一目見たいと思い一泊しました。

 寝る前に、明日の香港入境を楽しみにしながらも、交通と宿の不安は拭えません。中国に入って常に悩まされてきたこの2つの大切な要素。列車に乗れるのか、宿は取れるのかといったことを、常に心配しながら「駒」を進めてきたわけです。中国を出国して、香港に入境すれば、切符を買うのにどんな長蛇の列が展開されるのだろうと心配でたまりません。

 当日いよいよ香港入境です。国境を徒歩で越えるというのは貴重な体験です。まして、東西体制が衝突しているところといえば、その意義は大きいというものです。国境は川で区切られています。川を挟んでそれぞれの建物があり、その間に橋が架かっています。その橋はどちらの国にも属さない場所で、変な感覚です。飛行機に乗って空を飛んでいる状態と同じです。

 香港側のイミグレーションを通過して、いよいよ香港中心部行きの鉄道に乗車です。ここでとてもカルチャーショックを受けたのです。なんと長蛇の列などひとつもなく、切符は自動販売機で購入するのでした。そして、中国側とは比較にならないくらい洗練されたデザインの郊外型電車がホームに待っています。これなどは日本では当たり前なことですが、中国での苦労を思い返すと、ありがたさが痛感できます。

香港の国境行き電車
写真3

 資本主義国家のまちは勝手知った我が家の様です。ファーストフードのハンバーガーも大変おいしく感じました。

(07.01.29)

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