[伝える技術]
時間と共に考える

「ゆとり」とか「応用力」だとか言う前に、押さえておくべきことがあるとおもうのです。

Contents
>集中する習慣
>>続ける自信>>とりあえず成果が見えるもの
>基礎=時間×精度
>>対価を意識する>>時間と正確さの両方で判断>>ひとつの自信から広がる自信の連鎖
>伝えたい基礎とは「時間の感覚」
>>塾への批判>>学習の習慣をつける塾だとおもう>>応用力の前の基礎をつける塾だとおもう

集中する習慣

続ける自信

 息子は、もう小学校高学年。私に似たところがいっぱいありますが、「カツオ」や「のび太」のように宿題をためてしまうなどは受け継いで欲しくないところです。小学校に入る前から計算ばかりの塾に通わせることにしました。最初は遊びみたいな教材でしたから、すんなり始めてくれました。

 ひとつのことを続けることが出来たらと思ったのです。私自身、習い事が長続きしない子供時代でした。習い事を始めるときは他の子より遅れてはじめていることが多く、他の子に追いつくことが精一杯でしたから、すぐにいやになったのです。

 早めにスタートすれば、自然と習い事も慣れてくれるかと思ったわけです。

とりあえず成果が見えるもの

 イチロー選手のインタビューで、子供たちへのメッセージがありました。「早く自分のやりたいことを見つけ、目標にむかって努力しよう」とのこと。そうは言っても、小さい時分から自分の将来なんて簡単に見つかりません。親が出来なかったことを子供に期待するのも酷な話なので、とりあえず「成果が見えるもの」で、続けることの疑似体験を始めたわけです。

 計算が少しばかり早くても、大した自慢にはなりませんが、大人になっても役に立つでしょう。何か他に夢が出来たなら、塾をやめてもよかったのですが、特にそんな夢は無いようです。

基礎=時間×精度

対価を意識する

 社会人に出て、痛感したのが時間に対する概念です。ひとつの仕事を達成するのに、それにかける時間というのが大切となります。時間は給料など対価に跳ね返ってきます。効率よくやって時間を短縮するか、完成品の精度を妥協するか、その折り合いがむずかしいところです。いつも赤字では生活していけません。仕事が一人前になるのには、見積ができてとも言われます。材料費もさることながら、かかる時間の質と量をきちんと把握しなければならないのです。

時間と正確さの両方で判断

 計算ばかりの塾では、時間の概念が意識的に取り入れられています。プリント1枚あたり何分かかるか予想を立てて、実際にやってみた結果と比較する。実際に時間がかかったら、次のプリントの目標時間はすこし長めに設定するものの、練習の成果が現れ、目標より早く出来るかも知れない。単元毎のおさらいテストでは、かかった時間と正確さの両方で判断するとのこと。

点数と時間の相関関係
グラフ

 これは一般的な力試しのテストとは違うでしょう。

  • 前者(塾のテスト)は点数と時間のバランスが求められます。
  • 後者(一般的なテスト)は点数だけが絶対的な基準です。。

 「時間」というと、競争を連想してしまいますが、この塾では「自分との戦い」です。強制されるわけでもなく、点数と時間の相関関係を学んでいるようです。

 社会生活を営む上での仕事は、いくつものステップの積み重ねです。それぞれのステップは仕上がりと時間のバランスが大切です。時間はいくらかけてもいいから、いいものをつくってくれと言われることはなかなか無いでしょう。仕上がりを落とすことは好ましいことではありませんから、てきぱきとこなすために練習や経験を積んでいくことになります。正確に良いものを生み出すためだけでなく、時間を短縮して行うということも重要なことです。

ひとつの自信から広がる自信の連鎖

 私はこの計算ばかりの塾を、勉強する習慣をつける場所と割り切って活用してきました。計算が速く出来るということもひとつの成果ですが、毎日集中してやる習慣が得られるのは代え難い成果です。。机に向かうのもいやだった私の小学校時代よりは優秀です。得意分野ができたと言うことで、それ以外の不得意な分野に力を注ぐ余裕が出来ているようです。

伝えたい基礎とは「時間の感覚」

塾への批判

 こんな計算ばかりの塾ですが、目立つ全国チェーンということもあり、批判もあります。世の中どう考えているのかネットの掲示板等をうろうろしてみますと、この計算ばかりの塾はよいのかどうかというやりとりが目に付きます。

 先生の当たりはずれ、学校の授業より先行する生徒が学校でいばるということで、悪い印象を与えているのかもしれません。でも、ちょっと期待しすぎな部分もあると思うのです。

学習の習慣をつける塾だとおもう

 「プリントをやらせるくらいなら自分でできる」「私語の無い教室が気持ち悪い」という意見がありました。1教科の月謝は6,300円程。月に8回として、1回800円程度。これだけの経費で、子供にあったプリントを選定し、答え合わせをし、「嫌がる」子供にプリントをやれと強いるわけです。こんな大変なことを自分ではやってられません。

 学習する習慣なんて、なかなか付かないものです。ちょっと大変だけれど、他人のおばさん(塾の先生)がいうから仕方なく言うことを聞く。そのうちに集中する習慣が付くというものでしょう。静かな教室は大変結構なことだと思うのですよ。

 ちなみに、勉強の習慣をつけるだけなら1教科だけでいいというのは私の持論です。3教科となると月謝は3倍ですが、進度は3分の1です(勉強時間が3教科に振り分けられますから)。高い月謝を払って、たくさんの宿題にひーひー言っている割にはあまり達成感がないという状況が起こります。

応用力の前の基礎をつける塾だとおもう

 「この塾から他の塾に移った生徒は、考える問題が全くできなかった」、「社会で必要とされるのは応用力」という意見もありました。「基礎」か「応用」の二者択一ではなく、「基礎」と「応用」は共存するものでしょう。計算ばかりの塾は週2回。宿題は毎日30分程度。何倍もの時間を過ごす学校の影響の方が大きいと思うのです。役に立たないというのならまだしもです。

 教育論議の対象についてよく考えた方がよいと思うのです。文部科学省の仕事は、まず国を動かす人材の育成が最優先。エリート官僚や、ノーベル賞をねらう研究者など、これらはコストを無視しても100点を目指せば、国民のためになるという人材です。でも、ほとんど人たちは、コスト意識が求められる社会に身を置くことになるわけです。その辺りをふまえて、教育論議を聞かないと、実務と無縁の理論家をわざわざ育てていくことになってしまいます。本当にエリートをめざすのかを見極める必要があるでしょう。

(07.10.08)

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