たったひとつのことを伝えるためにあれこれたくさんのことを伝えないといけません。
ビアスの「悪魔の辞典」によれば、長編小説は「水増式の短編小説」だとのこと。「最後を読んでいる時には、最初のことなど、すっかり忘れてしまっている」という感じの解釈であったと思います。
水戸黄門が、越後屋の悪だくみを知るのは、番組が始まって間もない頃。しかし、「もうしばらく様子を見ましょう」といって事態は悪化。8時50分近くになってようやく印籠を取り出す頃には、すでに被害が拡大しているという始末です。「前半に何か意味があったのか?」と、野暮なことは聞かずに番組を楽しみましょう。
前半部分が無くても意味は通じます。でも無くても良いとは思わないでしょう。
前半が関係なさそうに見える話に、ドイツの作家ミヒャエルエンデ作の童話「はてしない物語」があります。童話とはいえ、結構なページ数の上に、哲学問答がちりばめられていて、どちらかというと大人向きの本ではないかと思います。
主人公の少年が本を読むのに夢中になるという話です。話は冒険物語で、お姫様の住んでいる国が滅びようとしているのをくい止めようとする勇者の話です。少年は勇者のつらい冒険物語に引き込まれます。ところがこの冒険に終わりはありません。実はこのお姫様、この冒険に終わりがないことを知っていたのに、勇者を冒険に行かせたのでした。
目的は少年の気を引くためでした。最後になって本の中のお姫様は読んでいる少年に向かって訴えます。少年が現実の世界から大声で新しいお姫様の名前を叫ばないとお姫様が住んでいる国が滅んでしまうのです。もちろん本の中から訴えられた少年はとても驚きます。自分は夢と現実を混同しているのだと思い否定しつづけますが、最後にはお姫様の言うことを信じ、大声で名前を叫ぶのです。
おわかりの様に前半の冒険物語はこの本の主題ではありません。でもこの部分が無かったら少年は本に引き込まれることもなくこの本を放棄したでしょう。そしてお姫様の言うことなど全く相手にしなかったでしょう。冒険物語の部分は、少年にひとつのことを伝えるために準備された「道具」だったいうわけです。
身内や気心が知れた相手ならば伝わるのに、全く知らない人にはなかなか伝わらないことはふだんから痛感することです。たったひとつのことを伝えるためにあれこれたくさんのことを伝えないといけません。
伝えたいことに集約する
これを図で書くと「ろうと」の様な逆三角形になるでしょう。最初はバラバラの密度の薄い情報が「伝えたいこと」というひとつの点に向かって集約するというイメージです。「水戸黄門」では越後屋の悪だくみ、「はてしない物語」では冒険物語が「全然関係ないこと」に見えるのに伝えたいことへ集約して行きます。一体どうすればうまく集約させることができるのか。私の試行錯誤を交え考えてみたいと思います。
(初出00.06.03)
(再編集03.10.06)
伝えたいことはひとつだけ。一度にたくさんの事を伝えると何が言いたいのかわからなくなってしまいます。
湾岸戦争の頃、私はアメリカに居りました。英語はちんぷんかんぷんだったのですが、お笑い番組でのジョージブッシュ大統領のパロディーが大変わかりやすかった記憶があります。
戦争相手の○○国に対して、「○○ is Bad」を連呼するというものです。息子である現大統領も「悪の枢軸」なんて名指ししていますので、そんなものだったのでしょう。わかりやすい言葉で言い含めるように国民に伝える様子をおもしろくまねているというわけです。
「この大統領はなんて単細胞なんだ!」なんて、冷ややかな視線を送る前に、こういう言い方になる理由を考えてみたいところです。
大統領は、バカのひとつ覚えで連呼しているわけでは無いでしょう。「○○国の独裁者は隣の国に侵略する」し、「残酷な手口で大勢の人を殺している」「もちろん、たくさんのいい人がおり、救ってあげたい。」と、いろいろな考えを背景としてもっていいるでしょう。だからといって、質問を受けたり演説をする度にこれらのことをごちゃごちゃ言っているのでは、まどろっこしすぎます。まるで「いろいろあるが甲乙つけ難し」と言っている様に聞こえ、頼りない大統領になってしまいます。だから男らしく一言「○○ is Bad」なのだと思います。
いろんな人種が一緒に暮らし、私を含め言葉が不自由な人々が結構多いこの国では、伝える技術にもひと工夫あるわけです。そしてこの技術を駆使することで、相手に対し考えを伝えることが容易になるわけです。
何度もレポートを書く機会がありました。流れるような名文なんて最初からあきらめていましたが、単語をつなげてなんとか意志は伝わった様です。何度もいわれたのが「何が言いたいのかひとつだけ述べなさい」というもの。文のThesisというのですが、伝えたいことを絞り込むというのは、当たり前のことの様ですがひと苦労です。
大統領も○○国については、いろいろと伝えたいことがあるわけです。先に述べたように
ということの他にも
なんて地理か歴史の教科書になりそうな事もあって、まとまりがつきません。結局「○○国について」というような無難なまとめになるわけですが、これでは伝えたいことを伝えていないのに等しい状況です。
上の例では「石油の埋蔵量が多い」とか「4大文明発祥の地」などがじゃまです。せっかくの知識だからこの際披露しようというわけですが、言えばいいというものではありません。読み手はだから「何が言いたいのか?」ということになってしまいます。
中には、見識のある人がいて、「あなたはこういうことが言いたいのですね」と、察してくれるでしょう。でも、他の人が察してくれるようなことはあなたがわざわざ言わなくてもいいわけです。それがつまらないことであっても、極端であっても、「伝えたいこと」は不可欠なのです。
「伝えたいこと」と「説明」
図にすると「ろうと」を逆さまにしたような三角形になります。前回も同じ様な図を書きましたが今回は少し詳細です。先端の「伝えたいこと」と残りの部分の「説明」に分かれています。「説明」は複数あると説得力を持つということで3つの部分に分かれています。
これらの部品が、がっちり組み合わさって、伝えることが出来るということです。
この中の「説明」に関して言えば、過不足無く盛り込むということが大切でしょう。「石油の埋蔵量が多い」とか「4大文明発祥の地」は、「伝えたいこと」の説明になっていないなら容赦なく削除しましょう。
もし、「石油の埋蔵量が多い」ということを言っておかなければならないと言うのであれば、おそらく「伝えたいこと」がもっと別な事であるに違いありません。例えば、「石油の利権が欲しいから・・・」「○○国を攻撃する」という文脈になるわけです。
自分の文や他の人の文を読む際に、「伝えたいこと」と、その「説明」が過不足無く書かれているか確認してみてください。一見、名文に見えるのに「伝えたいこと」が見えないとか、逆に「伝えたいこと」だらけで、なぜなのか「説明」がよくわからないとか。これらは日本語の文においても言えることだと思います。
(03.12.29)
「ゆとり」とか「応用力」だとか言う前に、押さえておくべきことがあるとおもうのです。
息子は、もう小学校高学年。私に似たところがいっぱいありますが、「カツオ」や「のび太」のように宿題をためてしまうなどは受け継いで欲しくないところです。小学校に入る前から計算ばかりの塾に通わせることにしました。最初は遊びみたいな教材でしたから、すんなり始めてくれました。
ひとつのことを続けることが出来たらと思ったのです。私自身、習い事が長続きしない子供時代でした。習い事を始めるときは他の子より遅れてはじめていることが多く、他の子に追いつくことが精一杯でしたから、すぐにいやになったのです。
早めにスタートすれば、自然と習い事も慣れてくれるかと思ったわけです。
イチロー選手のインタビューで、子供たちへのメッセージがありました。「早く自分のやりたいことを見つけ、目標にむかって努力しよう」とのこと。そうは言っても、小さい時分から自分の将来なんて簡単に見つかりません。親が出来なかったことを子供に期待するのも酷な話なので、とりあえず「成果が見えるもの」で、続けることの疑似体験を始めたわけです。
計算が少しばかり早くても、大した自慢にはなりませんが、大人になっても役に立つでしょう。何か他に夢が出来たなら、塾をやめてもよかったのですが、特にそんな夢は無いようです。
社会人に出て、痛感したのが時間に対する概念です。ひとつの仕事を達成するのに、それにかける時間というのが大切となります。時間は給料など対価に跳ね返ってきます。効率よくやって時間を短縮するか、完成品の精度を妥協するか、その折り合いがむずかしいところです。いつも赤字では生活していけません。仕事が一人前になるのには、見積ができてとも言われます。材料費もさることながら、かかる時間の質と量をきちんと把握しなければならないのです。
計算ばかりの塾では、時間の概念が意識的に取り入れられています。プリント1枚あたり何分かかるか予想を立てて、実際にやってみた結果と比較する。実際に時間がかかったら、次のプリントの目標時間はすこし長めに設定するものの、練習の成果が現れ、目標より早く出来るかも知れない。単元毎のおさらいテストでは、かかった時間と正確さの両方で判断するとのこと。
点数と時間の相関関係
これは一般的な力試しのテストとは違うでしょう。
「時間」というと、競争を連想してしまいますが、この塾では「自分との戦い」です。強制されるわけでもなく、点数と時間の相関関係を学んでいるようです。
社会生活を営む上での仕事は、いくつものステップの積み重ねです。それぞれのステップは仕上がりと時間のバランスが大切です。時間はいくらかけてもいいから、いいものをつくってくれと言われることはなかなか無いでしょう。仕上がりを落とすことは好ましいことではありませんから、てきぱきとこなすために練習や経験を積んでいくことになります。正確に良いものを生み出すためだけでなく、時間を短縮して行うということも重要なことです。
私はこの計算ばかりの塾を、勉強する習慣をつける場所と割り切って活用してきました。計算が速く出来るということもひとつの成果ですが、毎日集中してやる習慣が得られるのは代え難い成果です。。机に向かうのもいやだった私の小学校時代よりは優秀です。得意分野ができたと言うことで、それ以外の不得意な分野に力を注ぐ余裕が出来ているようです。
こんな計算ばかりの塾ですが、目立つ全国チェーンということもあり、批判もあります。世の中どう考えているのかネットの掲示板等をうろうろしてみますと、この計算ばかりの塾はよいのかどうかというやりとりが目に付きます。
先生の当たりはずれ、学校の授業より先行する生徒が学校でいばるということで、悪い印象を与えているのかもしれません。でも、ちょっと期待しすぎな部分もあると思うのです。
「プリントをやらせるくらいなら自分でできる」「私語の無い教室が気持ち悪い」という意見がありました。1教科の月謝は6,300円程。月に8回として、1回800円程度。これだけの経費で、子供にあったプリントを選定し、答え合わせをし、「嫌がる」子供にプリントをやれと強いるわけです。こんな大変なことを自分ではやってられません。
学習する習慣なんて、なかなか付かないものです。ちょっと大変だけれど、他人のおばさん(塾の先生)がいうから仕方なく言うことを聞く。そのうちに集中する習慣が付くというものでしょう。静かな教室は大変結構なことだと思うのですよ。
ちなみに、勉強の習慣をつけるだけなら1教科だけでいいというのは私の持論です。3教科となると月謝は3倍ですが、進度は3分の1です(勉強時間が3教科に振り分けられますから)。高い月謝を払って、たくさんの宿題にひーひー言っている割にはあまり達成感がないという状況が起こります。
「この塾から他の塾に移った生徒は、考える問題が全くできなかった」、「社会で必要とされるのは応用力」という意見もありました。「基礎」か「応用」の二者択一ではなく、「基礎」と「応用」は共存するものでしょう。計算ばかりの塾は週2回。宿題は毎日30分程度。何倍もの時間を過ごす学校の影響の方が大きいと思うのです。役に立たないというのならまだしもです。
教育論議の対象についてよく考えた方がよいと思うのです。文部科学省の仕事は、まず国を動かす人材の育成が最優先。エリート官僚や、ノーベル賞をねらう研究者など、これらはコストを無視しても100点を目指せば、国民のためになるという人材です。でも、ほとんど人たちは、コスト意識が求められる社会に身を置くことになるわけです。その辺りをふまえて、教育論議を聞かないと、実務と無縁の理論家をわざわざ育てていくことになってしまいます。本当にエリートをめざすのかを見極める必要があるでしょう。
(07.10.08)