なるほどな文章は手間がかかるものなのです。しかし、そのひと手間のおかげで言いたいことがはっきりとしてくるのです。
ネット上で「ウムウムとうなずく文章」と「そうでない文章」があります。私の好みかそうでないかは、関係ありません。内容が難しいかそうでないかと言うことも関係ありません。どうやら、言いたいこととその説明がきちんと書かれているときに「ウムウム」となる気がします。
そんな文章を「なるほどな文章」と名付け、文章を書くときも読むときの基準にすると、物事がすっきりと考えられるのです。
「なるほどな文章」というフィルターを通すと「言いたいこと」と「その説明」以外の文章は淘汰されてしまいます。時には最初に考えていた「言いたいこと」すら淘汰の対象になってしまいます。腹を立てていたときに思ったことが、後で冷静になって考えてみると、とんでもない思い違いだったという様なものです。
新しい事実を知ったり、腹を立てたり、感心したりと書きたいことはいっぱいあるのですから、もったいないことです。でも文章の「淘汰」の末に残るのは、わかりやすい文章の流れです。これがなければ始まりません。
なるほどな文章を目指すと次のような矛盾が見つかります。
これらの文章は、「おかしい」と、指摘できるほどおかしな文章では無いのですが、何となく「?」なのです。「なるほどな文章」のフィルターが「?」を浮かび上がらせるのです。
「なるほどな文章」は「記事」と言い替えることができるでしょう。記事の書き方についてうまく説明されているページがありました。
このインターネット新聞サイトの書き手は必ずしも記事を書く専門家ではありませんから、チュートリアルとなるこのようなページが必要となるのでしょう。「イイタイコト」は一つに絞るとか、「人が理解できるよう」説明するとか、今まで私が見聞きして実践していることがうまくまとめられています。同様の考え方は、「[伝える技術]伝えたいことはひとつだけ」にも私なりの解釈を掲載していますので併せてご参考ください。
このインターネット新聞サイトでは「イイタイコト」が良くわからなかったり、「人が理解できるよう」説明されていなかったりすると、意見を述べる掲示板に手厳しい指摘があったりしています。素人だからといって書き手はうかうか出来ません。たくさんの読者が記事に期待しているわけですから、意味不明な文章を放置するわけにはいかないのでしょう。
「流れのヒント」のように、ひとりの責任で運営しているサイトであれば、不満がある読者は去ればすむことですが、複数のメンバーで運営しているのであれば、そんなことも言ってられません。厳しい意見があるのは当然でしょう。
私のサイトはひとりで運営する気楽なサイトですが、ちゃんとしたことをかけるようになってから公開すべきではないかと不安になることもあるわけです。
そんな不安をうち消してくれるのが「暴論論」です。「暴論」とは乱暴な言葉と言うことではありません。「正論」は理想だが、そこに至らなくても発言することが大切だというのです。まずは暴論ポートフォリオをご覧になって暴論の位置づけを確認してみてください。
私の場合、ちゃんとした事(「暴論論」の中では「正論」)をかけるようになるのがいつになるのかわかりません。でも何も言わないよりも言うことが一歩前進ということで割り切るしかありません。そのうち立派な文章を書けるようになるために、日々精進するというものです。
でも読者の皆さんが読んでもさっぱりわからないと言うのでは迷惑な話でしょう。せめて、何度も推敲を重ねて、「言いたいこと」と「説明」が明快な「なるほどな文章」に近づける努力は必要と考えています。暴論という言葉を借りれば、私が目指しているのは「なるほどな暴論」と言うことになるでしょう。
(05.01.03)
この話題に関する情報、ご意見などがありましたら是非お寄せください。
目次